歴史と文化

六義園(りくぎえん)

柳沢吉保と徳川綱吉の評判
 五代将軍徳川綱吉の信任が厚かった柳沢吉保が元禄15(1702)年に築園した和歌の趣味を基調とする“回遊式築山泉水”の大名庭園です。明治時代には岩崎弥太郎の別邸となり修復されました。
 現在は東京都の都立公園として楽しまれています。入場料は一人300円(団体240円)。

 私たちが小・中学校の歴史の授業で教わった柳沢吉保と徳川綱吉の評判はほとんど芳しいものではありませんでしたが、この美しい庭園を散策していると、景観が和歌や漢詩にちなんで作られていることを知り、この庭を造った柳沢吉保の教養の深さに、ただの悪徳側用人とは思えなくなってきます。また彼を登用した徳川綱吉もただの愚かな“犬公方”ではないような気がします。
 綱吉は三代将軍家光の第四子として側室於国(後の桂晶院)を母として誕生しました。
(於国は元は“玉”という名の京都の八百屋の娘で、庶民の娘から将軍の側室にまで出世したことから、自分よりもはるかに上流階級に嫁ぐことを“玉の輿に乗る”という言葉ができたとも言われています)
 第四代将軍家綱の弟として跡目を継いで将軍になった綱吉は、危機的な状況にあった幕府の財政を強権と斬新な人材の登用によって立て直します。
●綱紀粛正
 治政不良の大名や代官の不正を許さず次々と容赦なく処罰しました。御家騒動なども許しませんでした。一方でまじめな者達は表彰しました。家康から三代将軍の家光までは処罰の対象は外様の大名が中心でしたが、綱吉になってからは対象が譜代や旗本などに広がり、より厳しい綱紀が要求されました。とくに代官などはよほど忠誠を尽くしているまじめな者以外、多くのものがその職をを追われました。綱吉が将軍になる前の80年間には切腹2名を含め、処罰を受けた代官は22名でしたが、綱吉の治世中の29年間に、51名(うち、切腹5名、斬罪1名)も処罰されています。
●勝手掛老中制度と側用人制度の創設
 綱吉よりも前の幕府では、老中の集団指導体制を採用していました。集団指導体制というと聞こえがよいのですが、逆に言えば集団無責任体制で、要するに、誰でもどの問題にでも口を挟みますが、責任を追及しようとすると、直接の責任者は誰もいないという体制です。これに対して綱吉は、その老中の中から特定人を選抜し、勝手掛老中としました。勝手掛老中とは、勘定所の主任の意味で幕府財政に関する専任者です。これによって権限と責任が明確になりました。
 側用人制度とは、家柄による無能者を排して、能力本位の人事です。柳沢吉保がこれです。現代でたとえるなら、アメリカの大統領補佐官みたいなものです。今日の能力本位人事を正当とする視点からする限り、当然のことですが、それを子が親の役職を継いでいくのが一般的であった封建制度の中で実現したという点で、画期的なものです。
 それにともない老中は側用人抜きに将軍に意見を伝えることはできなくなり、側用人が強い権限を持つとともに、将軍の権威はより高められました。
●貨幣の改鋳
 勘定奉行荻原重秀に貨幣の改鋳をさせ、通貨供給量を増やしました。それに伴い物価の高騰を招きますが景気は良くなり“元禄時代”という言葉は好景気の代名詞として使われています。 荻原重秀は「通貨は、政府の信用がこそ大切であり、そのためには金貨である必要もなく、瓦でも良い」とまで言っています。その先見性には目をみはらざるをえません、まさに現代において通貨は“瓦”どころか“紙”です。
●生類憐れみの令
 綱吉といえばこの“生類憐れみの令”ですが、実際には“生類憐れみの令”は単一の法令ではなく、同じような傾向の一連の政策をさすものです。最近の研究では、「将軍の行列を犬猫が横切ってもくるしゅうない」というお触れが始まりだとされています。捨て子、捨て老人を厳しく禁止して、経済的な理由で家畜を野に放すことを禁止したりもしました。  ただ、後年は次第にエスカレーションして、野犬のための施設まで作ったりして、これが悪評の原因と思われます。
 ちなみに、江戸時代の初期までは日本人も犬を食べていましたが、この“生類憐れみの令”影響で以後、犬を食べなくなりました。現在、私たちが犬を食べないのは、このころからできた習慣です。
 この生類憐れみの令に反対して、隠居させたれた水戸黄門が、悪代官を成敗する庶民のヒーローとなっているのを見ると不思議な気がします。 光圀は諸国漫遊などしていないし、悪代官を成敗したこともありません。実際に“悪代官”を成敗したのは綱吉なのですが、この“生類憐れみの令”に対する反発が、光圀へのひいきになって、光圀の諸国漫遊記の手柄話として語られることになったのでしょう。
 また、実際にはこの政策は伝わっているほどは厳しく適用された様子はなく、当時対馬で農作被害の対策として八万頭以上のイノシシを絶滅させた(農村で猪や鹿を殺すことも禁じられていました)陶山訥庵と言う人物は、厳しく咎められたもののその役職を解かれただけで死罪までには至りませんでした。

 綱吉の行った政策は、財政を再建し歳入を増やすため直轄の領地を増やし、役人の不正を許さず、身分制度を強化し、儒教・朱子学による道徳政策をすすめ、「目上をうやまい目下をいつくしめ」これが綱吉の一貫した政策でした。血生臭いことを嫌ったことが“生類憐れみの令”や赤穂浪士の成敗(刀を抜いた方が悪い)につながっていると思われます。
 この庭園を造った主である柳沢吉保は賄賂にまみれた悪人のごとく言われていますが、綱吉の死後は隠居し学問三昧の余生を送っています。権力にしがみつかない潔い生き方に“賄賂”の話は不自然なものを感じます。その後登場し、再び好景気を演出した田沼意次にもやはり“賄賂”のうわさがついてきます。
 社会が成熟して経済が穀物経済から貨幣経済(資本主義)へ移行してゆく時代の動きに対して、この変化を積極的進めようとした綱吉、柳沢吉保、田沼意次らに対して、保守的な教条主義をもった勢力が、彼らに対する否定的な評価をくだしてきたのかも知れません。

 徳川綱吉も愛したこの庭は、柳沢吉保が持っている教養をつぎ込んで作った庭です。
江戸の文化が花開き、今の日本の文化の基礎が完成された、まれにみる豊かな時代に思いをはせながらながめてみてはいかがでしょうか。
(2004年5月10日)

国指定特別名勝『六義園』染井門


一般庶民の入口はこちらです。入場料は一人300円です


入ってすぐに迎えてくれるのはこの巨大なしだれ桜


絵はがきのような美しい池のたたずまい


池には大きく太った錦鯉とカメが泳いでいました


池の奥の木立の中には、文京区内で一番高い藤代峠があります。
(標高35m)



開園時間 午前9時〜午後5時
(入園は午後4時30分まで)
休園日 年末年始(12月29日〜1月1日)
※イベント開催期間などで延長する場合もあります
入園料 一般300円 65歳以上150円
(小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料)
所在地 113-0021 文京区本駒込6-16-3
お問合せ 六義園管理所 電話03-3941-2222

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